石橋巡り
(2004年5月23日)

1.東京
(円月橋・常盤橋・常磐橋・日本橋・皇居二重橋・一ツ橋)



2.道中で見たもの



東京出張に合わせ、石橋巡りを計画しました。
水道橋駅で電車を下りて、小石川後楽園を一巡り、飯田橋駅で電車に乗るまで徒歩約2.5Km。
次は東京駅で下りて、常盤橋〜常磐橋〜日本橋を巡り、皇居二重橋へ。更に用事がある神田錦町へ徒歩。
幸いなことに、途中で「一ツ橋」に出会いました。
歩行距離、合計約9.5Km。車で400Km走るより疲れました。


本日の収穫6基、合計717基となりました。









円月橋(えんげつきょう) 文京区後楽 小石川後楽園

朱舜水の設計と指導により名工「駒橋嘉兵衛」が造った。橋が水面に写る影が満月になることからこの名がつけられた。後に八代将軍吉宗が江戸城吹上の庭に造ろうとしたが遂に果たせなかったといわれている。




常盤(ときわ)橋 中央区日本橋本石町 

昭和10年、現常磐橋のすぐ下流に架けられました。
常磐(ときわ)橋 中央区日本橋本石町

「この橋を常磐橋といい三代将軍家光の頃までは、大橋とも浅草口橋ともよばれました。
 しかしその名はよくないので改名するよう、町年寄の奈良屋市右衛門に命ぜられました。
 市右衛門は自宅に寄宿していた浪人に頼んで、橋の名を考えてもらい、常磐という名を献じました。「金葉集」の大夫典侍の歌に、「色かへぬ松によそへて東路の常磐のはしにかかる藤波」とあり、その歌の心を松平の姓にかけためでたい名です。なお常盤と常磐の文字のちがいがみられます。
 橋詰に北町奉行所があったこともあります。
 関東大震災後下流に常盤橋が架けられました。
 現在の石橋は枡形に使っていた石を用いて、明治10(1877)に改架した都内随一の貴重な洋式石橋です。橋の銘板には常磐橋とあり城門の枡形の一部も現存しています。」

千代田区教育委員会


左が下流、常盤橋(新しい方)。




右が上流、常磐橋(古い方)。
日本橋 中央区日本橋

国指定重要文化財
 「日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路現標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行なわれたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
 平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。」

中央区教育委員会



皇居二重橋 正門石橋 
皇居前広場から正門を経て宮殿へ至る濠に二つの橋が架かっており、手前の橋が「正門石橋」、奥の橋が「正門鉄橋」です。

 「二重橋」は一般にこの二つの橋を総称して言われていますが、厳密には奥の橋を指します。
  奥の橋はかつて、「下乗橋」と言われ、橋桁を支えるため、中途に台があって二重構造となっていたことからこの名がつきました。現在の橋は、昭和39年6月に架け替えられたものです。
  これらの橋は、通常は使用されず、新年の一般参賀や外国賓客の皇居訪問等宮中の公式行事の際に利用されます。

正門鉄橋




一ツ橋 千代田区一ツ橋

両岸は石造アーチ橋ですので、カウントに入れます。
「この橋を一ツ橋といい、内濠川に架かる見附橋です。徳川家康が江戸城に入ったころは、大きな丸木が一本架けられていて、その名で呼ばれていたといいます。寛永図(1624〜1643)には、一ツ橋とかかれています。
 橋のちかくに、松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆橋ともいわれたことがあります。その屋敷あとに、八代将軍吉宗の第四子徳川宗尹が、御三卿の一人として居をかまえていました。そこで橋の名をとって一ツ橋家と称したといわれています。
 明治6年(1873)一ツ橋門を撤去、現在の橋は大正14年(1925)架設、長さ19.6m、幅28m、コンクリート造り。
 橋の北側、如水会館の一帯は商科大学(現一橋大学)のあった所です。」

千代田区教育委員会



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